娼年
2018.12.11読了
扱っているテーマが娼夫なので、作品全体は陰鬱でウェットな雰囲気。
リョウの性格が陰鬱だからというのもあるだろう。
読後、『コンビニ人間』を読んだ時のような感覚になった。
”普通”ってなに?
”世間”に許される生き方だけが生き方なのか?
『娼年』において、リョウに想いを寄せるメグミが”普通”、”世間”の権化として描かれているように思われる。
彼女はリョウを”お日様の中”で生きていくよう説得し、それが叶わないと御堂静香をクラブパッションを通報することで強制的にリョウを元の”お日様の中”に戻す。
しかし、その行動は正しいのか。
もちろん、世間的には正しいだろう。
しかし、彼女の行動は英雄的には描かれていないし、読んだ人ならわかってもらえるだろうが、むしろ私には悪のように描かれていると感じられてならない。
リョウはアズマ曰く「普通」らしい。
だからこそメグミのように強制的に”お日様の中”に戻す人間が現れたのかもしれない。
リョウは本人の意思を置いてしまえば、どちらの世界でも生きられるということなのだろう。
しかし、リョウのようにどちらの世界でも生きられる人間ばかりではない。
感覚が混線してしまっているアズマ
自他の身体を売ることしか上手くできない静香
聴覚が不自由で、静香に憧れている娘の咲良
ホストをやっている幼馴染のシンヤ
”お日様の中”では生きられない人間だっていくらでもいる。
それにリョウのお客は皆、普段は”お日様の中”で生きている”真っ当な”人間ではなかったか。
では何故”真っ当な”人間なのに、”お日様の中”で生きている人間なのに、リョウのような娼夫を買うのか。
そこには歪んだ需要があるからではないだろうか。
誰しも大なり小なり歪んだ部分を抱えて生きているのではないか。
私がメグミを世間の権化だと感じたのは、この誰しもが持つ歪みを見ようとしないから。認めないから。それはメグミ自身の歪みに対しても、きっとそう。
それに対し、リョウは仕事とはいえ客の歪みから目をそらすことは無い。
内容は省略するが、イツキさんやアズマへの向き合い方がいい例では無いだろうか。
そしてリョウは他人だけではなく自分自身の歪みからも目を逸らさない。
真っ当なだけが生き方ではないのだ。
歪んでいても、その歪みを認め、歪みながらも生きていくのだ。
そんな風に感じた1冊だった。
シリーズの『逝年』『爽年』も読みたい。