ジョーカー

 

2019.10.16鑑賞

『ジョーカー』

 

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この日は、本当は違う映画を観るつもりでいたけれど、時間が合わず、同じく気になっていた『ジョーカー』を鑑賞することに。

 

鑑賞して感じたのは、恐怖。

『バッドマン』のヒール役なので、もちろん殺人シーンもあり、思わず目を覆ってしまったが、指しているのはそのようなシーンではなく。

言語化するのが難しいのだけれど、善良なアーサーをジョーカーにしてしまったものに対しての、底知れない絶望的な恐怖。

 

それらが歪に合致してしまったために、ジョーカーは誕生し、覚醒してしまった。

 

 

恐怖を感じたものの1つに「承認欲求」がある。

ネタバレしてしまうので多くは語れないのだけれど、誰からも存在を認められてかなかったアーサーにとって、初めて世間に存在を認められた瞬間が、皮肉にも殺人によってであった。

 

SNSが蔓延している現代において、承認欲求は数値化されてしまった側面がある。

 

いいねや登録数、再生数が欲しいが為に迷惑行為の一部始終を動画で投稿するなど、少し前は社会問題にまでなっていたけれど、

『ジョーカー』を鑑賞して、これに通ずるものがあると感じてしまった。

 

 

また、TV番組でアーサーが取り上げられた時、それは嘲笑の対象だった。

もちろん番組の制作サイドに悪気はない。

それどころか覚えてさえいない。

 

日本のバラエティ番組も、最近はこのように誰かを嘲笑するものが多いように感じる。

というよりも、どの局もそればかりで、あまり面白いと思えなくなってしまったので、最近はあまりTVを見なくなってしまった。

NHKとドラマくらいかしら。

 

神戸の教員によるいじめが頻発に取り沙汰されるけれど、加害者の反省文を読むと、彼らには暴行事件の加害者であるという認識が薄いのがよくわかる。

彼らにとっては、バラエティ番組の延長のような「いじり」だったのではないかという気がしてしまう。

そして、その先に待っているのはジョーカーなのではないかとも。

 

 

いろいろなところで言われている「階段」については、おおよそ同意見で、登っている時はアーサー(人間)、降りる時はジョーカー(道化師)だった。

 

階段の先の景色が見えず、苦しいながらも星だけを見て真っ直ぐ階段を登るアーサー。

先の景色など目もくれず、右へ左へ自由に楽しく踊りながら階段を降るジョーカー。

 

2つの生き方の違いが、階段のシーンだけでもはっきりとわかる。

 

また、アーサーの時は登るシーン、ジョーカーになってからは降るシーンばかりだったのも特徴的だった。

 

 

映画の鑑賞後は、余韻に浸る方だと自覚しているけれど、『ジョーカー』はその日1日何も手につかなくなってしまった。

それほどまでの恐怖があり、考えさせられる作品だった。